その日はきました。家族からの愛…
山西一紀氏を偲ぶ
- 2023.02.09
- ふと考える
2022年1月4日。大きな影響を与えてくれた「師」が旅立った。
畑違いの業界に入りゼロからの再出発のチャンスを与えてくれた恩人。そして今があるのも山西さんのおかげである。
バブルの時期に、楽しく一緒に仕事ができたことを光栄に感じています。関係者しか知らない一人の男の死に弔文ブログを書きたいと思う。
毎晩居酒屋にいた
1980年になったころ、関東の中堅企業でサラリーマンをしていたが組織の上司達の気概がなくなじめずに3年で故郷に帰って、本当にやりたい仕事をしようと退職した。
デザインが出来ればどんな会社でも良かったのですが、縁あって立ち上げて3年ぐらいの山西さんの事務所に拾ってもらった。
当時、山西さんはその年結婚したばかり。奥さんといっしょにバスで駅近くの事務所に来ていた。(生涯運転免許なし)私は独身で、郊外のアパートからスクーターで通っていた。年が近い3人で仕事を教えてもらいながら和気あいあいと過ごしていた。
3時には、奥さんがお菓子を買ってきたり、お祭りには近所に住む奥さんの家族が訪ねてきたりと親戚の家にでもいるような暖かさがあった。とても。
仕事が終わると駅前に飲みに出かけた。いつも、21時頃から。
同級生が営んでいる居酒屋だったり、顔なじみのスナックだったり数軒をはしごすると午前様である。毎晩。毎晩。
小心者で仕事を覚えてる私にとっては、いつも「明日もあるから早く帰って寝たい」と願っていましたが二日酔いのまま出社するのが常だった。
師匠にいわせると「仕事を忘れたい」のだそうです。
少し会社が大きくなって、昼から10人程でお花見をしたことがあった。いい天気と桜と酒に酔った山西さんは機嫌良くなってしまい足腰が立たないほどの泥酔状態。奥さんが「帰るよ」と言っても聞かずに「みんなを残して帰れるわけないだろ」といつもより乱暴な口調で言い返し、そのまま寝てしまった。
真冬の2月に札幌に行ったときには、ビール園で二人で競争してビールを飲んだ。
交流があった会社さんと一緒に北海道に社員旅行をした時の噺である。人数が多かったので私と山西さんの席は会話ができない距離だった。飲んだいるうちに山西さんと目が合うと、指で「2」を出している。ピンときたので私も「2」をだした。すると、にっこりしてうなずいた。
しばらくしてまた目が合うと、「4」を出した。
そんなふうに時々お互いの数を出しながら飲んでいたが、気がついたらジョッキを置かないと数字を伝えられない数になっていたところまでしか今は記憶が無い。どっちが勝ったのか、あの時のビール園が懐かしい。
酒の思い出が山西さんの思い出になっている。
それほど酒を愛した。
それで命を落としたのかもしれない。
でも楽しかったんだからいいのだ。自分の人生だもの。
いつも先をみていた
代理店さんから依頼が来て、デザインを出して校正して納品。という仕事の流れは、人気商売である。
お座敷でどれだけいい踊りと接客ができるかで、リピートされるかどうか判断される。1回1回が勝負なのだ。そこで他社との差別化はじめた。
直接お客さんとやりとりすることで安定させようと。しかし単発のデザインだけでは不安定なので「企画」を一緒に提案することでお客さんといっしょに成長しようとしたのだ。
地方でそんなこと考えてるデザイン事務所があっただろうか。しかし道のりは遠かった。
根っから広告企画が好きだったので、系統の本を読み、その時の仕事にちょっと実践してみたりしながら少しずつ「デザイン事務所」という印象から「企画ができるデザイン事務所」へと変わってきたのである。バブルも後押しをしてくれて、まとまった大きな仕事が複数はいるようになっていた。
企画提案書やプレゼンボードを作ることが多くなり、当時めずらしかったカラーコーピー機が活躍した。
自分にとって大きな変化だったのは、Macを導入したことだった。山西さんがどこで情報を見ていたのかわからないが、まだモノクロの高価なおもちゃみたいなPlusを1台事務所に入れた。これが後にデザインの道具になろうとは考えもしなかった。(東北でMacを入れたのは初めてだったのではないだろうか)
Macの前に、NECのパソコン(カラー)が先に入っていたが、とてもデザインに使えるようなスペックでは無かったし、専用アプリも出ていない状態でジャギー丸出しのゲーム機として遊んでいた。
Mac Plusの世界は、まったく考え方が違っていた。ファイル削除にはゴミ箱へドラッグして入れる、ファイルを立ち上げるときには、ファイルをちょんちょんとクリックする、どのアプリを立ち上げてもメニューの基本並びは同じで説明書がなくても誰でも使えるUIになっていた。
「デザインの基本」がここにあると感じた。
特にHyperCardというアプリに夢中になって、アルバイト君達の時給計算アプリなどを作って遊んだ。もうひとつの転機はMacとキャノンのカラーコピー機が繋がったこと。カラーのMacが発売されて、デザインのアプリも出て環境が整いつつあったが、プリントがだめだった。そんな時にカラーコピーで出力ができるようになったが、その機械がコピー機とは別に100万円以上していた。
もちろん導入した。これで、のりを使って切った、貼ったしてデザインを作っていた工程を画面の中で完結できるようになり、時間も相当に短縮できるようになった。
そんな最先端なやり方をしていたので、よく同業者が市内や県外から見学に来ていたほど。
この時はから、スタッフが8人以上に増えていた。
嫉妬とあまえの無限ループ
誰もが「いいひと」という山西さん。私にも声を荒げたことがはない。
気難しい(めんどくさいとも言う)私の中では、尊敬と嫉妬がつねに混沌としていた。別業界から入った私は、少し年上の山西さんが専門教育を受けて自営している状況をつい今の自分と比べてしまい落ち込んだり、尊敬したりと常に心の中はいそがしかった。(あーはずかし)
それは仕事が少しできるようになってもあまり変わらなかった。ライバルであり師匠だった。
とても敵いそうにないと思っている間は、どこか波立った状態だったが褒められれば波は穏やかだった。男同士とはこんなものなのか、今考えてもどうしようもなく自分が恥ずかしく消えてしまいたいと思う。
育てていただき心から感謝しています。
またいつか酒を飲みましょう。
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